契約は済んだ。アカウントも配った。それなのに、使っているのは一部の人だけ——。生成AIの導入で最も多く聞かれるのがこの状態です。原因はツールの性能ではなく、使う場面・聞ける相手・見える成果という導線が用意されていないことにあります。この記事では、定着しない理由を分解したうえで、現場に広げるまでの手順を整理します。
結論:定着を決めるのは「使う場面・聞ける相手・見える成果」の3つ
生成AIが社内で使われない原因は、ツールの性能ではないことがほとんどです。多くの場合、使う場面が決まっていない・詰まったときに聞ける相手がいない・使った成果が誰の目にも見えない——この3つが同時に起きています。
アカウントを配った時点で「導入した」と考えると、ここでつまずきます。配布は入口をつくっただけで、その先の導線は自然には生まれません。どの業務で使うのか、分からなくなったら誰に聞くのか、うまくいった例をどこで見られるのか。これらは別に用意する必要があります。
総務省の令和8年版情報通信白書(概要)によれば、日本企業のうち何らかの業務で生成AIを利用している割合は86.4%に達しています。その一方で、業務変革について「組織的な取組はない」と回答した割合が27.0%あり、比較対象の他国より高いと整理されています※1。使ってはいるが、組織としての取り組みにはなっていない——この記事が扱うのは、まさにその隙間です。
先に結論を述べます。定着は、おおむね次の順序でしか進みません。①最初に狙う業務を1つに絞る ②詰まったときに聞ける場所を用意する ③うまくいった例を集めて見せる ④横に広げる。この順序を飛ばして全社研修から入ると、一度盛り上がったあとに静かに戻ってしまう場合が多くあります。
本記事は「導入したのに使われない」を解消するための定着・浸透編です。ルール文書そのものの作り方(条文の構成、入力してよい情報の書き方、改訂や監査の運用)は生成AIの社内ガイドラインの作り方 — 条文構成と運用の型で扱っています。どの業務に使うかを網羅的に洗い出す手順はAIで効率化できる業務の見極め方と棚卸しの手順をご覧ください。本記事では、そこには踏み込まず、人が実際に使い続ける状態をどう作るかだけを扱います。
「導入したのに使われない」はどれくらい起きているのか
まず、自社だけの問題ではないことを確認しておきます。公表されている調査を並べると、導入は進んだものの、成果と組織的な取り組みが追いついていないという共通の形が見えてきます。
| 調査項目 | 数値 | 読み取れること |
|---|---|---|
| 何らかの業務で生成AIを利用(日本企業) | 86.4%※1 | 導入そのものは急速に広がった |
| 生成AIの活用方針を定めている(日本企業) | 68.9%(前年度調査 49.7%)※1 | 方針を決める企業は着実に増えている |
| 業務変革について「組織的な取組はない」(日本) | 27.0%※1 | 比較対象の他国より高い。個人任せが残っている |
| DXで「成果が出ている」(日米独) | 米独8割超/日本6割弱※3 | 取り組みの量ではなく、成果側で差がついている |
| 成果指標を設定している(日米独) | 日本3割以下/米独8割以上※3 | 測っていないため、改善の手がかりが残らない |
IPAの「DX動向2025」は、日本1,535社・米国509社・ドイツ537社を対象に実施された調査です※3。取り組んでいる企業の割合そのものは日本も低くないのに、成果が出ていると答えた割合で差がつく——この構図は、生成AIの定着でもそのまま当てはまります。配ることと、使われることと、成果が出ることは、それぞれ別の段階だということです。
個人側の数字も押さえておきます。生成AIの利用経験率は日本で58.8%(前年度調査は26.7%)と大きく伸びました※1。つまり「触ったことはある人」が社内に相当数いる前提で設計してよい段階に入っています。裏を返せば、使われない理由を「まだ知らないから」だけで説明することは、もうできません。
もうひとつ、白書の概要では、環境整備に関して日本の回答割合が他国より低い項目として、「業務プロセス見直しや活用検討に必要なスキル・ノウハウを学ぶ環境」と「社内データを生成AIに学習させたり、参照可能なデータベースを構築すること」が挙げられています※1。学ぶ場と、自社の情報につながる仕組み。この2つが弱いという指摘は、定着を考えるうえで示唆的です。
使われない理由を5つに分ける
「使われない」とひとことで言っても、原因はいくつかに分かれます。混ぜたまま対策を打つと、効かない手を打ち続けることになります。まず5つに分け、症状と打ち手を対応させてください。
| 理由 | 現場での言われ方 | 打ち手の方向 |
|---|---|---|
| 1. 存在を知らない | 「そんなの契約していたんですか」 | 入口を目に入る場所に置く。配布の告知は一度では届かない |
| 2. 使い方がわからない | 「何を打てばいいのか分からない」 | 自部署の業務に落ちた例と、そのまま真似できる型を出す |
| 3. 間違えるのが怖い | 「誤った内容が出たら、責任はどうなるのか」 | 出力の確認水準を用途別に先に示す。低リスクの業務から始める |
| 4. 業務に結びつかない | 「面白いけれど、仕事では使わない」 | 最初に狙う業務の選び方を変える。個人の趣味利用と切り離す |
| 5. 禁止範囲が曖昧 | 「入れていいのか分からないから、やめておく」 | 禁止から書かず、使ってよい範囲と相談先を先に示す |
このうち、経営層や情報システム部門から見えにくいのが3と5です。使わない理由を尋ねると「忙しくて」という答えが返ってくることが多いのですが、その裏に怖くて手が出せない状態が隠れている場合があります。とくに、過去に情報の取り扱いで注意を受けた経験がある部署ほど、この傾向が出やすくなります。
令和7年版の情報通信白書では、生成AIを利用しない理由として「自分の生活や業務に必要ない」が最も多く、次いで「使い方がわからない」が挙げられています※2。最も多い理由が「必要ない」である点は重要です。これは関心の問題ではなく、自分の仕事とAIが結びついていないという状態を指しています。ここに効くのは追加の啓発ではなく、「あなたのこの業務で、こう使えます」という具体の提示です。
5つのうちどれが自社で起きているかは、推測ではなく聞いて確かめてください。全社アンケートより、使っていない人3〜5名に10分ずつ話を聞くほうが、はるかに正確に分かります。匿名アンケートでは「必要性を感じない」に丸が付き、その下にある本当の理由が出てこないためです。
「配った」と「使われている」は別 — 何をもって定着とみなすか
定着の議論が噛み合わない原因の多くは、「使われている」の定義が人によって違うことにあります。経営は「全社に配った」と考え、情シスは「ログインした人数」を見て、現場は「自分の周りは誰も使っていない」と感じる。同じ会社で3つの認識が併存します。
段階に分けて言葉を揃えると、議論が進みます。
| 段階 | 状態 | この段階で詰まる原因 |
|---|---|---|
| 第1段階:配布済み | アカウントはあるが、開いたことがない | 入口が分からない。使う理由がない |
| 第2段階:試した | 一度は触ったが、業務では使っていない | 自分の業務との接点が見えない |
| 第3段階:繰り返し使う | 特定の作業で毎回使っている | ここまでは個人技。抜けると消える |
| 第4段階:業務手順に入った | 手順書やテンプレートに組み込まれている | 手順を書き換える権限が誰にもない |
| 第5段階:使わない方が不便 | 戻す選択肢が実質的にない | — |
多くの会社が止まるのは第2段階と第3段階の間です。ここを越えるには、個人の工夫を業務の手順に載せ替える作業が要ります。そして、それは現場だけでは決められません。手順書を直す、テンプレートを差し替える、承認の流れを変える——いずれも誰かが決める権限を持っている必要があります。推進役の権限が重要になるのはこのためです。
目標を立てるときは、「全社員が使う」ではなく「どの業務を第4段階に上げるか」で置いてください。人を数えると、使っていない人を責める空気が生まれます。業務を数えると、変えるべき対象が具体的になります。
何から始めるか — 対象業務の選び方と、推進体制
1件目の選び方は、2件目以降と基準が違います。効果の大きさではなく、定着しやすさで選んでください。ここを間違えると、最も大変な業務に最も経験のない状態で挑むことになります。
1件目に向く業務の条件は3つです。
- 毎日または毎週、必ず発生する。月に一度しか起きない業務では、覚える前に忘れます。頻度は習熟の材料です。
- 失敗しても被害が小さい。社外に直接出ない、やり直しがきく、締切に余裕がある。この条件があると、人は安心して試せます。
- 成果が人の目に触れる。会議で配る資料、共有フォルダに残る文書など。誰かが見て「それどうやったの」と聞ける状態が、次の利用者を連れてきます。
4つ目として、すでに困っている人がいる業務であればさらに良い条件が揃います。困っていない人に新しいやり方を勧めるのは、それだけで難易度が上がります。
参考として、令和8年版情報通信白書の概要では、日本企業の生成AI利用用途のうち「議事録・メール作成補助」が72.3%と最も高く、導入効果を実感する割合もこの用途で高いと示されています※1。これは上の3条件をよく満たす業務です。頻度が高く、失敗しても致命的になりにくく、成果物が人の目に触れます。1件目の候補として妥当性が高いと言えます。
逆に、1件目に向かないのは次のような業務です。顧客に直接出す提案書の作成(失敗の被害が大きい)、年に数回の集計作業(頻度が低い)、担当が1人しかいない専門業務(横に広がらない)。いずれも将来的には対象になりますが、最初に置くと定着より先に不安が育ちます。
なお、業務を網羅的に洗い出して頻度・定型度・判断量で評価する方法はAIで効率化できる業務の見極め方と棚卸しの手順で扱っています。本記事で述べているのは、その評価とは別に、1件目だけは「広がりやすさ」で選ぶという考え方です。
推進役(旗振り役)の置き方と、持たせる権限
定着に必要なのは、優秀な人材ではなく役割と時間と権限を与えられた人です。ここが空席のまま「みんなで頑張ろう」となっている会社では、まず進みません。
IPAの調査では、日本企業の8割超がDXを推進する人材の不足を挙げており※3、関連する討議資料では85.1%という数値が示されています※4。ただし、この数字を「だから人がいないので進められない」と読むと止まります。実務的には、完璧な人材が現れるのを待つのではなく、いま社内にいる人に役割と時間を割り当てるほうが早く進みます。
置き場所には、それぞれ向き不向きがあります。
| 情報システム部門に置く | 業務部門に置く | |
|---|---|---|
| 強み | ツール選定・設定・セキュリティの判断が速い | 業務の実態が分かる。使いどころを出せる |
| 弱み | 業務の中身が分からず、使いどころを出せない | ツールや設定の判断で止まりやすい |
| 向く場面 | 利用ツールが複数あり、管理が煩雑なとき | 特定業務の効率化から始めるとき |
| 補い方 | 業務部門から相談役を1名つける | 情シスに技術面の相談窓口を用意する |
どちらに置く場合でも、次の3つの権限を明示的に渡してください。これがないと、推進役は「お願いして回る人」になり、疲弊して終わります。
- アカウントの発行・停止を判断できる。使いたい人が翌日から使える状態にできること。申請から2週間かかる運用では、現場は待たずに諦めます。
- 小さな試行を自分の判断で始められる。金額と期間の上限(たとえば1件○万円・1か月以内)を先に決めておき、その範囲では稟議を通さずに試せるようにします。
- 業務手順の変更を提案し、決裁に載せられる経路がある。第4段階に上げるには手順の書き換えが要ります。提案が誰にも届かない構造だと、定着は第3段階で止まります。
そして時間の確保です。兼任で構いませんが、「週に何時間をこの役割に充てるか」を上長と合意し、書面に残してください。曖昧なまま始めると、繁忙期に真っ先に削られます。あわせて、この役割を人事評価の対象に含めるかどうかも決めておきます。評価に載らない仕事は、本人の善意だけで支えられることになり、長く続きません。
各部署に「使う人」を置く — 推進を1人に依存させない
推進役を1人置いただけでは、すぐ限界が来ます。質問がその人に集中して手が回らなくなり、しかも他部署の業務の細部までは分かりません。そこで、各部署から1名ずつ、現場側の担当を置きます。
選ぶときの基準は「一番詳しい人」ではありません。次の3つで選ぶほうが機能します。
- その業務を実際に毎日やっている人。使いどころを判断できるのは、手を動かしている人です。
- 話しかけやすい人。初歩的な質問を受け止める役割なので、ここが最も重要です。詳しさは後から補えます。
- 異動の予定が当面ない人。立ち上げの数か月で抜けると、仕切り直しになります。
担当に持たせる役割は3つに絞ります。自部署でうまくいった使い方を集めること、初歩的な質問の一次受けをすること、推進役に現場の詰まりを伝えること。それ以上を求めると、本業を圧迫して続きません。
注意点を2つ挙げます。ひとつは、最も詳しい人がすでに最も忙しい人であることが多いという現実です。その人に担当を兼ねさせると、質問対応で本業が止まります。もうひとつは、若手だけで固めないことです。ツールの操作には強くても、「この情報を入れてよいか」「この出力を顧客に出してよいか」の判断には業務経験が要ります。可能であれば、各部署で若手と中堅を1名ずつ組ませてください。
担当が集まる場は、月1回30分で十分です。議題は3つだけで回ります。今月うまくいった使い方、今月詰まったこと、来月試すこと。ここで出た内容は必ず文書に落とし、その場にいなかった人も読める状態にします。口頭で共有したまま残さないと、担当が交代した瞬間にゼロに戻ります。
小さく始めて横に広げる — 事例・教育・質問の場・ルールの伝え方
全社一斉に始めると、質問が同時多発し、推進役が対応しきれなくなります。結果として「聞いても返ってこない」という印象が全社に広がり、次の機会がやりにくくなります。順番に広げるほうが、結局は速く終わります。
第1段階では、対象を1つの部署の1つの業務に絞ります。ここでの目的は成果を出すことではなく、詰まる場所を全部洗い出すことです。どこで手が止まるか、どんな質問が出るか、どの説明が伝わらないか。これらが分かっていない状態で広げると、同じ詰まりが部署の数だけ発生します。
第2段階では、同じ業務を持つ別の部署に移します。ここでよくある失敗が、成功した部署のやり方をそのまま配ることです。前提が違えば、そのままでは動きません。移すべきものは手順そのものではなく、「どういう考え方で組み立てたか」と「うまくいかなかった点」です。とくに後者を一緒に渡すと、受け取る側が同じ失敗を繰り返さずに済みます。
第3段階に進む前に、一度立ち止まって判断してください。第1・第2段階で成果が見えなかった場合、対象業務の選定が合っていなかった可能性があります。そのまま横に広げても、結果は変わりません。業務を選び直すほうが早い場合が多くあります。
広げる速度の目安として、各段階で「質問がほぼ出なくなる」ことを次に進む条件にすると、無理のない進み方になります。質問が出続けている状態は、まだ型ができていないという合図です。
社内の成功例の集め方と、共有のしかた
「良い事例があれば共有してください」という呼びかけで事例が集まることは、まずありません。理由は3つあります。本人が「大したことではない」と思っている、自慢しているように見えるのが嫌、まとめて書くのが面倒。いずれも呼びかけでは解消しません。
集め方を仕組み側で変えます。
- 推進役や部署担当が聞きに行く。待つのではなく、「最近どう使っていますか」と個別に聞きます。事例の多くはこの形で出てきます。
- 書く項目を3つに絞る。「何の業務か」「何を頼んだか」「どう変わったか」。これ以上増やすと書かれません。3行で十分です。
- 定例の会議に5分の枠を作る。枠があると出ます。無いと出ません。それだけの違いが実際にあります。
共有のしかたにも要点があります。分量より頻度です。よくまとまった資料を四半期に1回出すより、3行の事例を週に1〜2件流すほうが、はるかに動きが生まれます。人は、まとまった資料を読んで行動を変えるのではなく、隣の人がやっているのを見て真似します。
そして文章より画面です。何をどう入力して何が返ってきたか、実際のやり取りをそのまま見せるほうが伝わります。「作業時間が30分短縮された」という数字より、「〇〇部の△△さんが、この形で使っている」という具体のほうが動きます。数字は経営報告のために必要ですが、現場を動かすのは具体です。
失敗例も同じ枠で共有してください。「この使い方は期待外れだった」「この内容は結局自分で書き直した」という情報が流れていると、質問がしやすい空気ができます。成功例だけが並ぶ場は、うまくできていない人にとって近寄りがたい場所になります。
集めた事例は、あとから探せる場所に置いてください。チャットに流しただけでは、2週間後には存在しないのと同じです。業務名で検索できる形にまとめておくと、新しく入った人が自分で辿れるようになります。
教育の設計 — 一斉研修だけでは残らない
全社研修は「着火」には有効です。ただし、それだけで定着させるのは難しいのが実情です。研修の直後は関心が高まりますが、自分の業務に落とす作業が入らないまま2週間が過ぎると、多くの人は元に戻ります。
設計の要点は、対象を3層に分け、内容を変えることです。全員に同じ研修を受けさせる形は、コストの割に残りません。
| 対象 | 目的 | 内容の方向 |
|---|---|---|
| 全社員 | 使ってよい範囲を知り、最初の一歩を踏む | 入口の場所、使ってよい範囲、相談先、自部署の使い方1つ |
| 部署担当・推進役 | 人に教えられる状態になる | 型の作り方、うまくいかないときの切り分け、事例の書き方 |
| 管理職 | 部下の使い方を判断できる | 出力の確認水準の決め方、評価での扱い方、止めるべき使い方 |
経済産業省とIPAの「デジタルスキル標準」も、対象を分けた構成になっています。全てのビジネスパーソンに向けたDXリテラシー標準と、推進人材の役割・スキルを定義したDX推進スキル標準の2つで構成されており、2026年4月にver.2.0が公表され、AI実装・運用やAIガバナンスに関するスキルが拡充されています※5。自社の教育を組み立てる際の骨格として参照できます。
研修そのものより、研修後の2週間が重要です。宿題を出すのではなく、実際の業務でその場で使う時間を確保してください。研修の最後の30分を「明日の自分の業務でどこに使うかを書き出す時間」に充てるだけでも、残り方が変わります。IPAの討議資料でも、実践型学習の拡充が提言として挙げられています※4。
先に触れたとおり、白書の概要では、日本は「業務プロセス見直しや活用検討に必要なスキル・ノウハウを学ぶ環境」の整備において、他国より回答割合が低いと示されています※1。研修を一度実施したかどうかではなく、学び続けられる環境が社内にあるかが問われている、と読むことができます。
なお、スキル体系の設計や、教育訓練給付金などの公的支援制度を含めた学び直し全体の進め方はAIリスキリングとは?企業と個人の進め方・必要スキル・支援制度で整理しています。本記事では、そのうち「使い続ける行動をどう作るか」の部分だけを扱っています。
質問できる場の作り方
定着の速度を決める要素のうち、費用がかからず効果が大きいのが質問できる場です。ここが無いと、詰まった人はその場で諦めます。そして、諦めたことは誰にも共有されません。
やってはいけないのは、個別のメールやダイレクトメッセージで質問を受けることです。同じ質問に何度も答えることになり、答えが誰にも残りません。推進役の時間が消え、しかも知見が蓄積しないという、最も損な形です。
場の条件は3つです。
- 全員が見える。誰かの質問が、他の人の答えになります。1つの質問には、たいてい黙っている10人分の疑問が含まれています。
- あとから検索できる。過去のやり取りを辿れないと、同じ質問が繰り返されます。業務名やキーワードで探せる形にしてください。
- 初歩的な質問をしてよい空気がある。これが最も難しく、最も重要です。空気は宣言ではなく、実例で作られます。
立ち上げの工夫として、最初の2週間は推進役が自分で質問を書き込む方法があります。誰も1件目を書きたがらないためです。「こんな初歩的なことを聞いていいのか」と思われる水準の質問を、あえて自分で投げて自分で答える。それが「この場はこの粒度でよい」という基準になります。
回答の型も決めておくと、答える側の負担が下がります。答え・その理由・次に同じことが起きたときの対処の3点で書きます。3点目があると、同じ質問の再発が減ります。
そして、「分からない」と書いてよいことにしてください。推進役が全てに答えられる必要はありません。分からないと書いたうえで、誰に確認するかを添える。この形が保たれていると、場が続きます。無理に答えて誤った内容が残るほうが、はるかに危険です。
あわせて、週1回30分の相談枠のような同期の場を用意すると、文字で聞くのが苦手な人を拾えます。参加者がゼロの週があっても構いません。枠が常にあること自体に意味があります。
「やってはいけない」の伝え方 — 萎縮させずに線を引く
ルールが必要なのは間違いありません。ただし、伝える順序を誤ると、利用そのものが止まります。「入れてはいけない情報」から始まる説明を受けた現場は、判断に迷った場面で必ず安全側に倒れます。安全側とは、使わないことです。
順序を変えてください。①使ってよい範囲 → ②迷ったときの相談先 → ③やってはいけないこと。同じ内容でも、この順で示すと受け取られ方が変わります。①から始めると「使ってよいものがある」という前提が立ち、③は例外として理解されます。③から始めると、全体が禁止の文書として読まれます。
もうひとつ有効なのが、迷ったときの既定の動作を決めておくことです。たとえば「判断に迷う情報は入力せず、その場で相談先に確認する」と決め、相談したこと自体は評価されると明記します。この一文があるかどうかで、相談の数がまったく変わります。相談が来ない状態は、迷いが無いのではなく、迷ったまま使わないことを選んでいる可能性が高いと考えてください。
現場に渡す文書は、日常的に必要な情報だけを1枚に収めるのが実務的です。細かい定義や手続きまで入れると読まれません。読まれない文書は、無いのとほとんど同じ結果になります。
条文の構成、入力してよい情報の基準の書き方、出力の取り扱い、既存規程との関係、改訂と教育の運用については生成AIの社内ガイドラインの作り方 — 条文構成と運用の型で詳しく扱っています。本記事では、すでにあるルールをどう伝えれば萎縮を生まないかという運用面のみを扱いました。
最後に、ルールを厳しくすることで利用が止まった場合、それは失敗として扱ってください。「安全になった」と評価すると、次に緩めることができなくなります。安全性と利用のどちらも必要である以上、片方だけを見た判断は、いずれ揺り戻しを生みます。
利用状況の見方と、経営層の関与
先に触れたとおり、成果指標を設定している企業の割合は、日本で3割以下、米国・ドイツでは8割以上とされています※3。測っていないから、良くなったのか悪くなったのかが分からない——この状態は、定着の議論を主観の応酬にします。
ただし、測りすぎると別の問題が起きます。何を測り、何を測らないかを先に決めてください。
| 指標 | 理由 | |
|---|---|---|
| 測る | 使っている部署の数、継続して使っている人の数 | 広がりが見える。個人ではなく面で見る |
| 測る | 対象業務の作業時間、差し戻しの回数 | 業務がどう変わったかが分かる |
| 測る | 事例の件数、質問の件数 | 立ち上げ期はこれが最も実態を映す |
| 測らない | 個人ごとの利用回数を目標に置くこと | 数字を作るための入力が増え、実態がかえって見えなくなる |
| 測らない | ログイン率だけを見ること | 開いただけの人と、業務で使う人が区別できない |
立ち上げから3か月は、件数で見るのが現実的です。事例が何件出たか、質問が何件出たか。この2つは、利用が動いているかどうかを素直に反映します。とくに質問が減り、事例も出ない状態は要注意です。定着したのではなく、静かに使われなくなっている場合があります。
測る頻度は月1回で十分です。週次で追うと、推進役の仕事が計測作業になり、本来やるべき現場対応の時間が消えます。数字を集めること自体が目的化する現象は、定着施策で最も起きやすい副作用のひとつです。
なお、社員の利用データを見る場合は、何をどこまで見るのかを先に伝えてください。あとから知られると、それだけで協力が得にくくなります。そもそも取得できる範囲は契約形態によって変わるので、技術的に可能かどうかの確認が先です。ログ取得や監査を規程としてどう定めるかは生成AIの社内ガイドラインの作り方で扱っています。
経営層の関与 — どこで、何を言うか
「経営のコミットメントが必要」とはよく言われますが、実際に何をすればよいのかが曖昧なまま終わりがちです。関与すべき場面は3つに絞れます。
- 開始時に、目的を自分の言葉で言う。他部署に任せた案件だと受け取られると、現場の優先順位が下がります。読み上げでなく、自分の言葉であることが重要です。
- 途中で、使っている姿を見せる。経営層が一切使っていない状態で全社に利用を求めるのは、無理があります。完璧に使いこなす必要はなく、試して詰まった話をするだけでも効果があります。
- 評価と予算の場で扱う。推進役の時間配分を認め、必要な費用を確保するのは経営の判断です。ここが決まらないと、他の全ての設計が絵に描いた餅になります。
逆に、言わないほうがよいことが1つあります。「効率化して人を減らす」という趣旨の発言です。この一言が出た時点で、現場は全力で止めにかかります。効率化の成果をどう扱うのか——空いた時間を何に振り向けるのか——を先に示さないまま、削減だけを語るのは危険です。
経済産業省の「デジタルガバナンス・コード3.0」(2024年9月19日改訂)は、経営者が企業価値向上のために実践すべき事柄をまとめたものです。人材面については、デジタルスキル標準を参照した社員のスキル可視化、経営者を含めた役員・管理職の意識改革、キャリア形成支援の重要性が挙げられています※6。「経営者を含めた」意識改革と明記されている点は、この文脈で示唆的です。
経営層の関与を制度に落とすなら、四半期に1回、15分の報告枠を経営会議に固定するのが簡単で効果的です。枠があると報告のために状況が整理され、整理されると詰まりが可視化されます。報告する側にとっても、経営が見ているという事実が支えになります。
半年後に形骸化させないための運用
立ち上げから半年前後で、多くの取り組みが静かに勢いを失います。原因はだいたい決まっています。最初の熱が下がる、推進役が異動する、ツールや機能が変わる、新しく入った人に引き継がれない。いずれも避けられない変化なので、あらかじめ運用に組み込んでおきます。
| 周期 | やること | 狙い |
|---|---|---|
| 月次 | 事例と質問の棚卸し(30分) | 止まっている場所を早く見つける |
| 四半期 | 対象業務の見直しと経営への報告 | 畳む業務と、次に広げる業務を決める |
| 半期 | 使ってよい範囲・相談先・担当者の見直し | 実態と文書のずれを直す |
| 随時 | 新任者・異動者への受け渡し | 入社手続きに組み込んで抜けを防ぐ |
「やめる」判断を運用に含めてください。効果が出ない使い方を惰性で続けると、取り組み全体の信用が落ちます。四半期の見直しで、続ける・変える・畳むの3択で判断し、畳んだ理由を記録に残します。記録が残っていれば、半年後に同じ提案が出たときに議論をやり直さずに済みます。
引き継ぎの設計も先にしておきます。推進役や部署担当は、いずれ異動します。そのとき残るのは、頭の中にあった知識ではなく、文書と場です。事例の置き場、質問の場、月次の会議体——この3つが残っていれば、担当が替わっても再開できます。逆に、全てが個人のメールと記憶の中にある状態だと、交代で完全に止まります。
新しいツールや機能への向き合い方も決めておくと、疲弊を防げます。出てくるもの全てを追う必要はありません。四半期の見直しのタイミングでまとめて検討する、と決めておけば、日々の情報に振り回されずに済みます。追いかけること自体が目的になっている状態は、定着から最も遠い場所です。
定着の場面で繰り返される8つの失敗
「使われない」状態が続く会社で、繰り返し見られる進め方を挙げます。いずれも、善意で始めた施策が裏目に出る形です。
- 失敗1:全社研修から始める。着火には有効ですが、受け皿(使う業務・聞ける場・見える事例)が無い状態で実施すると、関心だけが上がって行き場を失います。先に1部署で回してからにしてください。
- 失敗2:詳しい人に任せきりにする。その人の周囲だけで完結し、横に広がりません。しかも異動で消えます。役割と権限を明示し、担当を複数置いてください。
- 失敗3:効果の大きい業務から手を付ける。難易度も高く、失敗の被害も大きい業務です。1件目は定着しやすさで選びます。
- 失敗4:ルールが固まるまで使わせない。検討している間、現場は「使ってはいけないもの」として認識を固めます。あとから解禁しても、その認識はすぐには戻りません。
- 失敗5:利用率を目標に置く。数字を作るための入力が増え、業務が変わったかどうかがかえって見えなくなります。測るのは業務がどう変わったかです。
- 失敗6:成功例を経営報告にしか使わない。報告資料の中だけで完結し、現場に戻ってきません。事例はまず現場に、短く、頻繁に流してください。
- 失敗7:推進役に時間を与えない。役割だけ任命して業務量を調整しないと、繁忙期に必ず止まります。時間の確保は、任命とセットです。
- 失敗8:質問を個別のやり取りで受ける。同じ質問に何度も答えることになり、知見が誰にも残りません。場に集約してください。
この8つのうち、複数に心当たりがある場合、原因は担当者の力量ではなく設計の問題である可能性が高いと考えられます。人を替えるより、順序と権限を組み替えるほうが早く改善します。
最初の90日 — 定着までの段取り
これから始める方に向けて、90日を3つの月に分けた段取りを示します。専任者を置けない規模でも回せる形にしています。
1か月目:現状を把握し、体制を決めます。まず、社内で誰が何に使っているかを調べます。把握できていない会社がほとんどです。次に推進役を任命し、週あたりの時間配分を上長と合意します。あわせて対象業務を1つ決めます。この段階で完璧な計画は要りません。決めるべきは「誰が」「どの業務で」始めるかの2点です。
2か月目:1部署1業務で実際に回します。同時に質問の場を立ち上げ、推進役が最初の質問を自分で書き込みます。この月の目的は成果ではなく、詰まる場所の洗い出しです。出てきた質問は全て記録し、月末に分類します。ここで得た情報が、3か月目以降の展開速度を決めます。
3か月目:事例を集めて共有し、横に広げます。3行の事例を週1〜2件流し、同じ業務を持つ他部署に移します。移すときは、うまくいかなかった点も一緒に渡します。月末には経営会議に15分の報告枠を取り、続ける・変える・畳むの判断材料を出します。
90日後の判断は3択です。成果と質問が出ていれば続けて広げる。使われてはいるが業務が変わっていなければ対象業務を選び直す。ほとんど使われていなければ原因を5つの分類に戻して特定する。この段階でうまくいっていない場合、ツールを変えても結果は変わらないことがほとんどです。原因は導線の側にあります。
なお、生成AIの定着は単体で完結する取り組みではなく、業務の見直しと地続きです。デジタル化全体の進め方はDXとは何か — 中小企業がデジタル化で止まらないための進め方で整理しています。棚卸し・標準化・自動化という順序を押さえておくと、生成AIをどこに置くかの判断がしやすくなります。
よくある質問
全社研修や追加の告知より先に、使っていない人3〜5名に個別に話を聞いてください。理由は「存在を知らない」「使い方がわからない」「間違えるのが怖い」「業務に結びつかない」「禁止範囲が曖昧」の5つに分かれ、それぞれ打ち手が違います。原因を特定してから、1部署1業務に絞って回すのが最短です。
どちらでも機能しますが、向き不向きがあります。情シスはツール選定や設定の判断が速い反面、業務の使いどころを出しにくくなります。業務部門はその逆です。重要なのは所属より、アカウント発行の判断・小さな試行の決裁・業務手順の変更提案という3つの権限と、週あたりの時間が確保されているかどうかです。
研修は着火には有効ですが、受け皿がないと戻ります。研修後2週間のうちに実務で使う時間があるか、詰まったときに聞ける場があるか、他の人の使い方が見えるか。この3つが揃っていない場合、内容の良し悪しにかかわらず残りません。対象を全社員・推進役・管理職の3層に分け、内容を変えることも有効です。
人の割合で見ないほうが実態に合います。おすすめは業務単位での段階評価です。「配布済み」「試した」「繰り返し使う」「業務手順に入った」「使わない方が不便」の5段階で見て、対象業務をいくつ第4段階に上げられたかで判断します。人を数えると、使っていない人を責める空気が生まれやすくなります。
差そのものは自然に生まれます。問題は、詳しい人の使い方が個人技のまま止まっていることです。その人の使い方を聞き取って型にし、業務手順やテンプレートに組み込んでください。あわせて各部署に担当を置き、質問の受け口を分散させます。差を縮めるのは啓発ではなく、手順への組み込みです。
3つの場面に絞ると実行しやすくなります。開始時に目的を自分の言葉で伝えること、途中で自分も使っている姿を見せること、評価と予算の場で推進役の時間と費用を認めることです。逆に「効率化して人を減らす」という趣旨の発言は、現場の協力を失う原因になりやすいため避けてください。
兼任で問題ありません。ただし週あたりの時間配分を上長と合意し、書面に残してください。曖昧なままだと繁忙期に消えます。対象は1部署1業務に絞り、質問の場は既存のチャットに専用の場所を1つ作るだけで足ります。新しい仕組みを増やさず、既にあるものに載せるのが現実的です。
呼びかけでは集まりません。推進役や部署担当が個別に「最近どう使っていますか」と聞きに行くのが確実です。書く項目は「何の業務か」「何を頼んだか」「どう変わったか」の3つに絞り、3行で済む形にします。定例会議に5分の枠を作ると、それだけで出てくる件数が変わります。
伝える順序を変えてください。「使ってよい範囲」「迷ったときの相談先」「やってはいけないこと」の順に示すと、同じ内容でも受け取られ方が変わります。あわせて「相談したこと自体は評価される」と明記します。相談が来ない状態は、迷いが無いのではなく、迷ったまま使わない選択をしている可能性があります。
立て直せます。まず、事例と質問の件数がいつから落ちたかを確認してください。推進役の異動、繁忙期、ツールの変更など、きっかけがある場合が多くあります。そのうえで、対象業務を1つ選び直して小さく回し直すのが早い方法です。同時に、月次・四半期・半期の見直しを運用に固定し、次の谷を防ぎます。
参考文献
- ※1 令和8年版 情報通信白書(概要) 総務省(2026.08.03確認)
- ※2 令和7年版 情報通信白書「個人におけるAI利用の現状」 総務省(2026.08.03確認)
- ※3 プレス発表「日本・米国・ドイツ企業のDX推進状況を調査した『DX動向2025』を公開」(2025年6月26日) 情報処理推進機構(IPA)(2026.08.03確認)
- ※4 DX動向2025 — AI時代のデジタル人材育成 情報処理推進機構(IPA)(2026.08.03確認)
- ※5 プレス発表「デジタルスキル標準ver.2.0を公開」(2026年4月16日) 情報処理推進機構(IPA)/経済産業省(2026.08.03確認)
- ※6 「デジタルガバナンス・コード3.0〜DX経営による企業価値向上に向けて〜」を策定しました(2024年9月19日) 経済産業省(2026.08.03確認)
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